岳温泉の歴史・伝説

岳温泉の変遷史

 遥か古代において、天空に火柱を噴上げる安達太良山は人々の恐れとともに信仰崇拝の対象そのものであり、熱い水を懇々と湧き出す源泉もまた、人々には"神の泉"として脅威であり、祠を作り神を祭るようになった。

 古記録によると『日本三代実録』の貞観5年(863)10月20日の条に「小結温泉に従五位を授ける」、また『日本紀略』の寛平9年(897)9月7日の条に「小結温泉に正五位下を授ける」と記されているが、この温泉こそが"岳温泉"を指しており、千数百年前の平安時代、既に京の都においてその存在が知られていたのである。

 その後、名称は"湯日"、"十文字"、"深堀"、そして"岳"と変わっていくが、その長い歴史には土砂崩れや火災に遭遇し、その都度場所を移し,姿を変えてきた苦渋の足跡があった。そこで、災害史でもある岳温泉の変遷を4期に区分して振り返ることにする。

1.湯日(元岳)温泉時代<〜文政7年(1824)>

 鉄山直下の湧泉地に営まれていた小規模な湯小屋が丹羽二本松藩時代に温泉街として整備され、番所や藩公の御殿も配置された。江戸中期には湯女(ゆな)も許可され一時は100人にも達し、歓楽適温泉場として遠くは水戸などからも来湯客で賑わったという。

 文政7年8月15日、連日の雨と台風が直撃した影響で、夜五ツ過ぎ(午後8時過ぎ)に鉄山の一角が崩壊、土石流が一瞬にして温泉街を飲み込んだ。この状況は『岳山崩一見』や『奥州二本松岳山変事筆記』によると医師や人足600名以上が出向き復旧に当たったが「死骸は土中に埋まり、屍湯気にただれうるみ候を引上げ数日間置候処、面影常に替り見分けがたく、ほくろ、あざ等をしるべにようやく見分けられ候」とある。

 長い歴史を誇った”湯日(元岳)温泉”は山津波によって一瞬にして崩壊、埋没したのである。

区 分 人 数 無 事 死亡(死体不明) 負 傷
湯元人 54 36 18 ( 4) 15
湯治客 142 97 45 ( 7) 27
合 計 196 133 63 (11) 42


2.十文字岳温泉時代<文政8年(1825)〜慶応4年(1868)>

 藩は元岳温泉から6キロ程下の平原地(現在の不動平)に新温泉地を建設に着手した。引湯設計は藩随一の算学者渡辺東岳が行った。鉄山の湯本からの引湯は、当初は土管を樋として土中に埋めたが湯冷めがするため、松の木管に変更するなど大がかりだった。そうして費用5千両をかけ驚異的な早さで翌年7月に完成したのである。

 高台に藩公御殿や温泉神社が鎮座し、下方には4区画の町並み、中心地に14件の旅館と3つの共同浴場、茶屋・商店・工人が軒を連ねていた。旅館は総て2階造りであり、当時としては想像を絶するほどの温泉街であったことがわかる。また嘉永5年(1852)刊『吾妻のみやげ』所収『諸国温泉効能鑑』の全国温泉番付によれば「陸奥の岳温泉」の名で東北地方第1位にあたる東前頭2枚目に位置づけされ、全国に知られた温泉でもあった。

 しかしその繁栄も長くは続かず慶応4年(明治元年)の戊辰戦争において敵西軍の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまった。


3.深堀温泉時代<明治3年(1870)〜明治36年(1903)>

 現在の岳温泉に隣接した西南部一体は江戸時代に深堀村と称し、湯日温泉を支える物資補給基地として栄えた地区であった。十文字温泉に移ってからは寂れていたが、前記温泉焼失の3年後に再建の地がここ深堀に決定したのである。焼け跡への再建は地元が強硬に反対したためである(農民が酒や女郎遊びにはまり借金や家庭騒動が絶えなかったらしい)。

 明治3年8月新しく湯樋管を開設し復興した。しかし明治維新の動乱期でもあり、9件の小さい旅館と2つの共同浴場などの素朴な温泉場であった。それでも近在近郷の湯治客に親しまれていたという。

 明治36年10月20日午後1時30分。旅館からの失火により温泉街は全滅した。そしてその地には再建されることはなく、現在は往時を偲ぶ石垣のみが残されている。


4.岳温泉時代<明治39年(1906)〜>

 温泉再建に熱意を傾ける岳下村・永田村・原瀬村の有志17名が当時のお金で7600円をもって岳温泉株式合資会社を設立。当時の椚平1番地国有林を払い下げてもらい、中央に道路を敷設し両側に旅館や商店を並べ2つの共同浴場を配置した。今の岳温泉の原型が完成したのである。

 しかし岳温泉は7件の旅館が担保に入り、高利貸しから借金をして急場を凌ぐという最悪の経営状態が続いていた。そしてついに大正12年(1923)経営不振となり倒産してしまった。その後、秋田県出身で台湾土地建物株式会社社長であった木村泰治が土地6町歩と温泉の権利一切を6万円の巨費で買い取り、岳温泉の再建が始まる。温泉街の整備、湯元から長さ一間の松木の湯樋管を4千本以上繋ぎ合わせての引湯、国立公園指定、県営くろがね小屋の新設など、観光施設の開発充実に尽力した。その結果昭和30年(1955)に全国で7カ所の国民保養温泉の一つに指定され、繁栄の基礎を築いたのである。

 その後は各旅館や商店が一体となり宣伝にも力を入れ、近代的な温泉として着実な発展を見せてきた。そして昭和57年、全国に先駆けた『ニコニコ共和国』独立宣言以来、その名は広く普及し、有名温泉地として現在に至っている。


5.そして今がある――――――――

 今日の岳温泉繁栄の陰には、三度の大災害に遭遇したものの、その都度、温泉にたずさわる先人たちの温泉に対する並々ならない熱情と不屈の精神があった。私達岳温泉で暮らす者たちは、その精神を受け継ぎ、未来に継承していかなければならない・・・

『奥州二本松岳山変事筆記』(遠藤紀一郎所蔵)


犠牲者の眠る無縁墓地と供養の墓標


「奥州二本松岳引湯再興略絵図」(個人蔵)


「岳温泉支店開業広告」


岳下村役場にて、地元住民の出迎えを受けて


ニコニコ共和国閣僚一同


国境検問風景

ニコニコ共和国「建国記」
---------- 独立憲章 ----------
  • 1.国民はいつもニコニコ。
    笑顔であいさつします。
  • 1.健やかな心と健やかな体
    国民の目標です。
  • 1.こどもは共和国の未来。
    お年寄は共和国のたから。
    ほんとの青空の下で仲よく過ごそう。
  • 1.岳の自然を大切に。
    野山の木は折りません。ゴミはすてません。
  • 1.酒を愛し、歌を愛し、友(ひと)を愛する・・・
    これがニコニコ精神。
    さあ、じゃんじゃんやろう。
岳にまつわる昔話
黄門さまの岳温泉来遊
  水戸のご隠居・水戸黄門も岳温泉を愛したファンのひとりでした。
「安達岳の湯守にあたふ 風外 山の奥に かかる男を みちのくの 二本松なら 又も近平」
水戸黄門はこの狂歌をよんで、平近平に書き与えたという話が伝わっています。
  水戸黄門は寛永5年(一六二八)生まれで、元禄13年(一七〇〇)12月6日に没しました。 文献によれば岳温泉に訪れたのは寛永15年(一六三八)と元禄11年(一六九八)。 つまり、11歳のときと、71歳のときになります。

安達太良の話
  昔、塩沢の田地ヶ岡に安達太良という者が住んでおりました。 安達太良は京の都から郡司として派遣され、妻は飯坂城主、佐藤氏の美しい娘で、 夫婦には4歳になる子供がおりました。
  ある時、多賀の国(宮城県多賀城)の国司が、安達太良の妻の噂を聞きつけ、 自分のものにしようと飯坂城主の佐藤氏に娘をよこすよう言ってきました。 佐藤氏は困り果て、子供もおり応じかねます、と返事したところ、国司はあきらめるどころか、 太良をだましてでも娘を奪い返せと命じてきました。
  佐藤氏は仕方なく、娘夫婦に自分が病気だと嘘の便りで呼び立て、道中で夫婦を襲ったのです。 陰謀に気づいた太良は田地ヶ岡に引き返そうとしましたが、既に館は国司の軍勢に落ちており、 太良はそのまま都に逃れたのでした。佐藤氏の陰謀を知った太良の重臣、箕輪太夫は、 4歳になる若殿を連れ安達太良山に隠れました。都に出た太良は、都の役所にこの事件を訴え、 国司と飯坂城主の佐藤氏は流罪になったということです。

女郎塚と袖振り地蔵
  文政7年(一八二四)の大暴風で「鉄山」の一角が崩れ、 「くろがね小屋」の近くにあった元岳の「陽日温泉」(現在の岳温泉)は、 土の下に埋もれてしまいました。その翌年の文政8年(一八二五)、 木ノ根坂付近に湯を引いて出来た十文字岳温泉には、 50軒もの旅館や遊郭(女郎屋)や二本松城主の御殿もあり、再び賑わいを見せたといいます。
  十文字岳温泉には、おもに越後の方から売られてきた女郎達が多数働いていました。 女郎達は訪れる客とともに日々を過ごし、湯治客を送る際には、 泣く泣く袖を振り別れを惜しんだといいます。その場所が、今の木の根坂あたりです。 女郎の中にはこの地で亡くなった人も多く、無縁仏として埋葬されました。
  明治の戊辰戦争の際には、二本松に攻め込んできた西軍の手で温泉街が焼かれ、 その時の火事で亡くなった女郎も大勢いたそうです。女郎達は夜な夜な幽霊として現れ、 昔を懐かしみ、かつて客と別れを惜しんだ場所ですすり泣いた事から、 地元の人達は女郎の霊を慰めるため地蔵尊を建て、この地蔵を「袖振り地蔵」と名付けました。 女郎の墓のある場所は「女郎塚」と呼ばれています。