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岳温泉について

日本百名山、安達太良山の麓に広がる、爽やかな高原の温泉郷

豊かな水と緑に恵まれた国民温泉保養地でもある岳温泉は、温泉神社への参道でもあるヒマラヤ大通りを中心に広がり、自然に囲まれつつも、昔ながらの温泉街の風情も感じられます。
岳温泉を含む「あだたら高原」とは、安達太良山の麓一帯のことを指し、放牧されている牛や野生のニホンリスを見かけることもできます。

あだたら高原について

岳温泉の歴史

土砂崩れや火災などによって、幾度とない移転をよぎなくされてきた岳温泉。そこには、岳温泉を守り、受け継いてきた先人たちの歴史があります。現在の岳温泉に至るまでの歴史をご紹介します。

情熱と不屈の精神に
守られた1200年の軌跡 ~序章~

遥か古代において、天空に火柱を噴上げる安達太良山は人々の恐れとともに信仰崇拝の対象そのものであり、熱い水を懇々と湧き出す源泉もまた、人々には“神の泉”として脅威であり、祠を作り神を祭るようになりました。

古記録によると『日本三代実録』の貞観5年(863年)10月20日の条に「小結温泉に従五位を授ける」、また『日本紀略』の寛平9年(897年)9月7日の条に「小結温泉に正五位下を授ける」と記されていますが、この温泉こそが“岳温泉”を指しており、千数百年前の平安時代、既に京の都においてその存在が知られていました。

その後、温泉の名称は“湯日”、“十文字”、“深堀”、そして“岳”と変わっていきましたが、その長い歴史には土砂崩れや火災に遭遇し、その都度場所を移し姿を変えてきた苦渋の足跡があります。

山津波にのまれ、
一瞬にして崩壊 ~湯日(ゆい)温泉時代~

- 1824年

平安時代から続く温泉場ですが、江戸時代になると、この地を統治していた二本松藩により、安達太良山の標高1500メートルの位置に温泉街として整備され、番所や藩公の御殿も配置されました。江戸中期には湯女(ゆな)も許可され、歓楽温泉場として遠くは水戸などからも来湯客で賑わいを博していました。

そんななか、連日のように続く雨と台風により、安達太良山(鉄山)の一角が崩壊し、土石流が一瞬にして温泉街を飲み込みました。温泉街復旧のために医師や人足600名以上が出向きましたが、「死骸は土中に埋まり、屍湯気にただれうるみ候を引上げ数日間置候処、面影常に替り見分けがたく、ほくろ、あざ等をしるべにようやく見分けられ候」と、『岳山崩一見』や『奥州二本松岳山変事筆記』に、当時の惨状が記録されています。

このように長い歴史を誇った“湯日温泉”は、山津波によって一瞬にして崩壊、埋没したのでした。

  • 奥州二本松岳山変事筆記
  • 犠牲者の眠る無縁墓地と供養の墓標

戊辰戦争により
焼き払われた温泉街 ~十文字岳(じゅうもんじだけ)温泉時代~

- 1868年

二本松藩は、陽日温泉街より6キロ程下の平原地に、山津波により崩壊した温泉街を再建すべく新温泉地の建設に着手しました。
標高1500メートルの湯元からの引湯は、湯温を保つために土管から、より保温性の高い赤松の木管をくり抜いた樋に変更して使用するなど、大がかりな工事となりました。
しかしながら、約5千両の費用をかけ驚異的な早さで、山津波から1年後の7月に新温泉地として「十文字岳温泉」が再建されました。

温泉街の高台に藩公御殿や温泉神社が鎮座し、中心地に14件の旅館と3つの共同浴場、茶屋・商店・工人が軒を連ね、当時としては想像を絶するほどの立派な温泉街であったことがわかります。また、嘉永5年(1852年)発刊の『諸国温泉効能鑑』全国温泉番付によれば、「陸奥の岳温泉」の名で東北地方第1位にあたる東前頭2枚目に位置づけされ、全国に知られた温泉でもありました。

しかしその繁栄も長くは続かず、慶応4年(明治元年)の戊辰戦争において、敵である西軍の拠点になることを恐れた二本松藩士によって焼き払われてしまいました。

  • 「奥州二本松岳引湯再興略絵図」(個人蔵)

旅館からの失火、
温泉街は火の海に ~深堀(ふかぼり)温泉時代~

- 1903年

前記の温泉焼失の3年後(明治3年)には、現在の岳温泉の西南部のエリアに深堀温泉として温泉街が再々建されました。
しかし、明治維新の動乱期ということもあり、過去の温泉街のような賑わいはなく、9件の小さい旅館と2つの共同浴場などの素朴な温泉場でした。それでも近在近郷の湯治客に親しまれていたといいます。

そして、明治36年10月20日午後1時30分、旅館からの失火により再び温泉街は全滅してしまいます。現在その地には、当時を偲ぶ石垣のみが残されています。

  • 昔の面影を偲ばせる石垣

3度の大災害からの
復興を経て現在の地に ~岳温泉時代~

- 現在

失火により焼失した温泉街を再再々建すべく、有志17名が当時のお金で7600円をもって岳温泉株式合資会社を設立します。
当時の椚平1番地国有林を払い下げてもらい、中央に道路を敷設し両側に旅館や商店を並べて2つの共同浴場を配置し、今の岳温泉の原型が完成しました。

しかし、岳温泉は7件の旅館が担保に入り、高利貸しから借金をして急場を凌ぐという最悪の経営状態が続いていました。そしてついに、大正12年(1923年)に経営不振となり倒産に至ります。その後、秋田県出身で台湾土地建物株式会社社長であった木村泰治が、土地6町歩と温泉の権利一切を6万円の巨費で買い取り、岳温泉の再建が始まります。
温泉街の整備、湯元から長さ一間の松木の湯樋管を4千本以上繋ぎ合わせての引湯、国立公園指定、県営くろがね小屋の新設など、観光施設の開発充実に尽力しました。
その結果、昭和30年(1955年)には全国で7カ所の国民保養温泉の一つに指定され(現在は全国で80か所の国民保養温泉地がある)、繁栄の基礎を築いたのです。

その後は各旅館や商店が一体となり、近代的な温泉として着実な発展を遂げ、昭和57年に全国に先駆けた『ニコニコ共和国』独立宣言をするなど、その名は広く普及しました。

  • 岳温泉支店開業広告
  • ニコニコ共和国閣僚一同
  • 国境検問風景